石工の流儀 沖田茂也
沖田が石工の仕事を選んだのは、19歳の時である。やはりベテランの石工だった、父親の仕事に魅かれたからだ。その仕事とは、当時、建築石材として人気のあった大谷石を仕入れ、原材料から門柱や塀などの卸製品に加工し、施工することである。父親の手抜きのない一貫した仕事が、お客様にとても喜ばれているのを見て、自分も同じ仕事がしたい、と思った。
それから27年。彼は芳村石材店で、石工一筋の人生を歩んで来た。この店は父親の取引先であり、幼いころから出入することも多く、親しみがあった。もの心がつきはじめた頃から、職人への憧れもあり、石工の仕事を選ぶことに、何の迷いもなかったと言う。
今年、51歳。気持ちの若さか、まるで年齢を感じさせない。皆から“シゲちゃん”と、親しみをこめて呼ばれている。物怖じしない性格と、頼まれると嫌と言えぬ優しさが好かれている。どこの現場でもすぐに、よその職人さんたちとも親しくなる。自分より若い人間にも分け隔てがない。一緒に仕事と遊びを楽しむ柔軟性がある。さりげなく適切な指導もする。大切な人材だ。
石の仕事の好きなところは?と聞くと…
「石は、手を加え磨けば艶が出るし、叩けばまた表情を変えて、色んな仕上がりができるんや、そこが楽しい」と言う。
石の加工には大きく分けて、本磨きや水磨きなど、石の表面を磨く仕上げと、“ビシャン”や“小叩き”など、石の表面を叩く仕上げがあるが、さまざまな加工を施すことで、石の長所や短所がわかる。そこが魅力だ、と沖田は付け加えた。
「社寺建築の現場は、昔から据わっている石を直すことで、先人さんの知恵がわかる事も多く、良い経験になる」。根っから石の仕事に惚れ込んだ、男ならではの言葉が続いた。
得意な石仕事を問うと、強いてないと答える。そして…「手作業の加工はまだまだ経験が足らんから、得意とは言えへん」「建築の石工事は、内容が年々変化するから覚える事が多くて、その都度が勉強だと、思ってます」などと、いつもの自信ある顔とは裏腹に、謙虚なことを言う。
そんな彼だけに、石工として思い出に残る仕事も多い。
例えば、1985年の阪神が優勝した年に手がけた「三条テナントビル」の工事では、古い乾式の壁貼りをした。当時は石の取付け金具の種類も無く、大変苦労した、と笑う。1990年の「ミズホカントリークラブ」では、クラブハウスの壁貼りをしたが、段取りの仕方も学べた。また、数奇屋造りで有名な中村工務店さんの工事では、邸宅の基礎に関わる土台石・地覆石の据付から、室内の浴室・玄関などの石張り、そして外装の門柱の据付や石垣積みなど、多種多様な石仕事を行った。施工方法の異なる様々な仕事が、長期にわたり経験できた。その時、仕事量や材料の加工精度によって、仕事のできふできが左右される、という事を学んだ。
そして、長岡天神の太鼓橋と鳥居の施工では、大きさが変わっても仕事の内容は変わらぬ事を知り、さらに鹿苑寺(金閣寺)の鐘楼を解体・復元した工事では、先人の優れた技術を知ることができた。と、多くの良い仕事が経験できた喜びと、誇りをもって熱く語ってくれた。
沖田は京都の向日市に生まれ育った。美味しい筍で有名な土地だ。仕事場の芳村石材店には、毎日、1時間かけ電車とバスで通う。スポーツシャツにトレーナーとジーンズ。大きなバッグを肩からさげ、学生のようなカジュアルないでたちで、やって来る。学校を出てから、この京都で、自分のスタイルを守りながら、好きな石工の仕事を一筋、コツコツと続けてきた。
そんな彼が京都で石工を続ける意義とこだわりを問うと…
「生まれ育ったこの町でこれからもずっと、人の目につかなくても、縁の下の力もちで支えていく仕事をし、残していきたい」「仕事のこだわりと言えば、長年にわたって人に喜ばれる事を考え、効率よく作業を進めて、多くの機会に関わりたい」ということ。
「それと常務の丹羽さんや、亡くなられた水口さん、猪口さんに、一から仕事を教えてもらった事を忘れず、自らの経験を活かしてこれからもやっていきたい」ということ。
彼の、人となりが伺える、温もりのある言葉が戻ってきた。
沖田はさらに言う。
「芳村の仕事をしていると、昔、芳村がした石工事の現場を観ることが多くある。電動工具も無い時代に、高い技術力で、今では考えられないような見えない所まで加工したり、施工が施してある仕事に出会うと、そのたびに感動を覚える」
「そして、そんな昔の職人の知恵と技術をひとつでも多く学び、現在と過去の良い所を合せ、みんなへと伝えていきたいんや」それが、石工・沖田茂也がめざす、自分の方向だと強く語ってくれた。
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