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京の石文化を守り継ぐ。
社寺・一般建築石材について

石工の流儀
百年先、二百年先でも通用する石の仕事を残す
玉津輝生

石工の流儀

玉津が生まれ育ったのは三重県の南部。黒潮の流れる熊野灘に面した町、「尾鷲」(おわせ)である。面積の90%を山林が占める、この町は背後を山に囲まれ、南からの温かく湿った空気が流れ込みやすい。全国的にも非常に雨量が多い、都市の一つとされている。だが温暖で、黒潮と雨にも恵まれている御蔭で、新鮮な海の幸と山の幸には、事欠かない町でもある。

また「尾鷲」は良質な御影石の産地としても知られる。尾鷲石は紀州石とも呼ばれ、主に国産ケンチ石として、石垣積みなどに多く用いれられてきた。山から石切り職人の手により切りだされた石が運ばれ、河川の石積みなどの現場で、石積みの石工が手際良く、パンッ、パンッと玄能で形を整え、少しずつ石垣が積み上げられていく。 そんな風景を子供の頃から脳裏に焼き付けてきたのか、それとも尾鷲ビトの血が流れているかは知らぬが、玉津が一番、好きな石工事は“石垣積み”だと言う。

石工の流儀

芳村石材店で石工の仕事を始めて三十四年。社寺建築をはじめ、多種多様な石工事をしてきたのに、一見、単調で派手さもない“石積みの仕事が好きだ”と言い切るのが、この男の“らしさ”でもある。

玉津は言葉数の少ない男である。だが、話すと言葉に無駄がない。じっくりと頭の中で考えをまとめ、相手の顔をじっと見て、絞り出すように言葉を発する。そんな彼だから仕事に関しても無駄がない。常に仕事の効率と安全性を考え、適切な方法で作業の進め方をまとめていく。それだけに彼の仕事についての信頼は高く、また彼を仕事のまとめ役として慕い、頼り、集まる仲間も多い。

浅黒く日焼けした身体は極めて細く、どこにそんな力があるかと思うほどだが、強靭な鋼のような強さを持って、数ある大きな石を次々と据えていく。玉津は言う。「僕は難しいと思える仕事ほど闘志が湧き、遣り甲斐を感じるんです」そんな屈託なく話す彼に、得意な石仕事の分野と、思い出に残った仕事は何かを問うてみた。

「関わった仕事はどれも文化財として価値があり、大規模なものが多いけど、中でも古い建築物、特に社寺建築の石工事が得意ですね。思い出に残る仕事と言えば、本能寺納骨堂や京都御苑御門、重要文化財の伊佐家や西本願寺、国宝の醍醐寺三宝院や長谷寺など。それと、花見小路周辺の石貼り工事と、岐阜の三川公園、嵐山の渡月橋周辺の環境石材工事などは、広がりもあり写真で紹介できたらいいですね」と、応えてくれた。

石工の流儀

玉津は現在58歳。法政大学を出て、何か一つのことに打ち込む仕事がしたい、と思って選んだのが石工だった。落ち着いた街で自分の好きな仕事ができたらと考え、今もこの京都に住み、“京都の石工”として生きている。

長年、彼がこの京都の石屋、芳村石材店の仕事に関わってきたことについて尋ねてみると…
「芳村石材店には、学生のバイトから入り、そのまま石工として育ってきましたが、この店は石工事について、多くの実績を持っている事は無論ですが、常に新しい工法や感覚を取り込んでいるのが、素晴らしいと思っています」

最後に彼の仕事のこだわり“石工の流儀”を尋ねると、「先人の仕事と自分の仕事を重ね合わせ、百年先、二百年先でも通用する石の仕事を残す事を、いつも心がけています。そして、仕事は楽しくやり、いつも完全を目指すこと。これに尽きます」と、力強く、言葉を押し出し応えた。

 

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