石工 芳村 茂右衛門(もえもん)の履歴
■白川石工 茂右衛門
茂右衛門は、芳村家代々の当主が襲名する名前です。江戸・享保年間の創業以来、現在まで名前が継がれています。そして“石工の茂右衛門”を縮めた「石茂」(イシモ)が屋号となり、現在も会社のロゴマークなどに使われています。
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閑空さん (三代目茂右衛門) |
初代茂右衛門は京都の白川村の出身。当時は吉村の性でした。白川村は、銀閣寺前の白川通りを少し北に上り、東に入る、琵琶湖に抜ける山道“志賀越通”の麓辺りです。比叡山と如意ヶ岳(大文字山)に挟まれ、白川という川沿いに広がるこの地域は、昔、白川石という良質の花崗岩が採れていました。硬質ながら粘りがあり、白さが失われない“銘石”として知られ、灯篭や狛犬など、多くの京都産の石造品が作られましたが、今は石の産出ができません。
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明治時代/石搬入風景 |
当時は、石工名を石造品に彫ることは必ずしも許されていなく、珍しかったようですが、文政三年(1820)正月に大師講の寄進による、東寺の宮燈籠一対に「白川石工 茂右衛門」の名が刻まれています。白川村は京都の石屋発祥の地と言える場所ですが、茂右衛門は天保元年(1830)頃に、今の堀川椹木町へと移っています。
そしてそれ以降の茂右衛門の作品については、石造美術研究家で「京の石仏」や「石燈籠新入門」などの本を書かれた、京都石仏会会長の佐野精一先生が克明に調べられた「京石工芳村茂右衛門・在銘一覧表」に記されています。
■茂右衛門の足跡
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下御霊神社狐像 |
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北野天満宮 |
私たちのように普段、モノを造る仕事に携わっている人間は、なかなか完成させた仕事の記録を残すことができていません。今でこそデジカメなどで手軽に記録できますが、職人気質の強い仕事場では、完成した仕事より次の仕事への意識が強く先人が行った仕事を振り返っても、人の記憶や口伝によることも多く、不明確な点もあり反省が必要です。
幸い、茂右衛門の研究については、佐野精一先生が詳細に、作品記録を直筆で残していただいたのと、「狛犬学事始」、「京都狛犬巡り」などの素晴らしい本を出版されておられる小寺慶昭先生が、茂右衛門について書かれているので助けられております。
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首途神社天降り石 |
小寺先生の名著「京都狛犬巡り」では、13章の狛犬の名工たち(191頁)で、京都の狛犬造りの名石工として、芳村茂右衛門をとりあげていただいております。北野天満宮を初め八箇所の狛犬の記録をあげ、感想を述べていただいています。
文中では、もう一組の京都の名工松助(親/初代・子/二代目)の作品と対比して紹介されています。松助の造った狛犬が初代に比べ、二代目の仕上がり方に力量の差がみられることに触れて‥「茂右衛門についてはその作風や技量に差は見られない。松助が個人芸的な要素が強いのに対して、茂右衛門には組織のリーダーとしての役割が大きかったのだと思われる。
つまり、彼自身の力量が名人級であるのは当然として、その石工集団としての質の高さも保たれていたのだ」と感想が述べられています。
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北野天満宮宮燈籠 |
宮燈籠や狛犬の作品に「石工 茂右衛門」の名が多く刻まれているのは、特に三代目茂右衛門(1851-1900)の頃と思います。この時代はペリー来航以降、寺田屋事件、禁門の変、大政奉還と、京都だけでなく日本中が大きく揺れ動いています。
また京都は、明治2年の東京遷都により人口が激減し、都市衰退の危機にありました。そんな京都を復興する大事業として琵琶湖疎水工事が強力に推進されました。(明治18年-23年)京都の激しい変化と息吹の中に、茂右衛門は生きています。
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疎水門 |
大変な難工事だった疎水工事にも深く関わっていたと聞きます。そこには名人石工という一人の職人から、石工集団の長として成長した、茂右衛門の苦悩と活力が感じられる気がします。この頃の堀川の店の賑わいが、明治16年10月に発刊された「都の魁」という、京都の商工年鑑に掲載されています。
■時代を超え、刻む石の音
その後も茂右衛門は4代、5代、6代と時を重ね「京都の石屋」としての歴史と、石仕事の実績を残しています。江戸、明治、大正、昭和、平成と時代を超え、多くの社会変化と、お客様のご要望にお応えしながら、家訓“お客様大事”を基本にコツコツと、知識と技術を積み重ねてきました。私たちは今後も、先代「茂右衛門」の名を汚さぬように、この京都の町で一所懸命に努力を続けたいと考えております。
石茂 昔の風景
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